芥川




そのひとはただ一言、「来い」と言った。
窓の外からそっと差し伸べられた手は、大きくて頼もしくて、
だから少女は小さく頷いた。
背負ってくれた背中は少し堅くて、温かかった。
このひとについて行こうと思った。





「だいじょうぶですか?」
しばらく歩き続けていたら、上から遠慮がちに少女の声がする。
息も上がってきたし、足も思うように動かなくなってきた。
不安にさせてしまったのだろうか。
「私、降りて歩きます」
決然とそう言って、着地しようともがくので、背に回した手に軽く力を込めた。
「いらんことはするな。お前を歩かせると余計遅くなる」
口実ではなく、実際にそう思っていた。
下りようと足をばたつかせた少女の力は、疲労した自分よりずっとか弱かったから。
大人しくなった少女を、一旦立ち止まって背負い直す。
肩に乗せられた小さな手に、心なしかきゅっと力が込められた。
宵闇は塗られたようにしっとりと深く、空気は少し肌寒い。
「怖いか」
「だいじょうぶです」
そう答えるも、少女の声は頼りない。
「少し休むか」
と言って、細い草の上に降ろして座らせた。
少女は地面に足がつくなりその場にへたりこんでしまう。
掴んでいたものを放したくなかったらしく、その手にはしっかりと彼の服の裾が握りこまれていた。
どうしたらこうもか弱くなれるものなのだろう、と不思議に思う。
これまでずっと屋敷の中で壊れ物のように扱われてきた少女は、夜間にどころかまともに外に出るのも初めての経験らしく、
おぼつかない視線できょろきょろと見回している。
「放せ。……大丈夫だ、何も起きない」
自分の服が名残惜しげに解放されたのを認めると、男は少女の隣に腰を下ろした。
少女はというと、他に何もすることがなくなったらしく、今度はじっと彼の顔を見ている。
露出の少ない服の袖から覗く手はきちんと揃えられていて、育ちの良さを感じさせた。
外気に晒されたことなどないのではないかと思うほどに、夜目にも白く浮いて映る。
そして相変わらず彼の顔をじっと眺めている。
しばらくは知らない振りをしていた男だが、次第にそうも行かなくなった。
「じろじろ見るな。その辺でも観察してろ」
逐一命令しないと何もしない。
何をすればいいのか分からないのだろう。少々扱いに困る。
男の舌打ちに軽く首をかしげて、少女は指示通り、辺り一面に広がる柔らかな草原を見渡した。
場違いに澄んだ目は、どこか男には見えない遠くを眺めているようだ。
ふと、少女の指が男の服の裾を再び掴み、今度はちょいちょいと引っ張った。
「何だ」
「あれ。あれ、何ですか?」
懸命に指差す方向に目を凝らしてみるものの、あるのは緑の草原のみで。
「草のことか?」
さすがに少女もそれくらいは知っているらしく、首をふるふると横に振って
「草の上の…キラキラした丸いの……」
と言う。
「きれい……真珠みたいです……」
魅了されたような声でそう呟かれても、男の視界には真珠と思しきものはない。
からかっているのか。
訝しげに横目で少女を見ると、気づきもしなかったが彼女は全体重を完全に男の腕に預け、
幸せそうに草原の『真珠』とやらを見つめている。
呆れた。
左腕を取られてしまったので、右手で髪を掻き分けてため息をつく。
そっと寄りかかってくる体は、妙に柔らかく、小さく、心地よい重さだった。
世間知らずな少女はまだ真珠に飽きることがないらしい。
仕方なくこの酔狂な遊びに付き合うことになる。
「あれ……火?」
不意に少女が一言漏らした。
今度は何のことを言っているのかと思ったが、内容が気にかかって目を細める。
不揃いに立ち並んだ深い木々の間に、確かに、赤い光がぼんやりとゆらめいた。
それからきらりと閃く鉄色の――
「あれ、何?」
「伏せろ、馬鹿!」
思わず左腕で華奢な体を押し倒した。
その丁度上を一本の細い線が掠める。
次いで風を切る音がして、数本の線が降る。
自分も伏せて隣を見ると、何が何やら分からず不思議そうにしている少女と目が合った。
その大きな目が見開かれる。
「遠山さん、それ……」
ほとんど同じタイミングで矢襲が止んだ。
男はぐっと少女の手をひく。
「走れ!」
叫んで腕を掴んだまま走りだした。
少女のあまりの遅さに、しだいに横抱きの体勢になる。
隣で引きずられるようにして走る少女の目は、男の体をじっと見ていた。
濃い紺色に、赤黒い染みがじわりと広がっていた。
小さな白い手で男の袖を握る。
後方からはただ矢の放たれる音が聞こえてきて、何も分からぬままひたすら走った。
やがて鬱蒼とした木々の間に、朽ちかけた倉が見えてきた。
男の右手がその扉を勢い良く開き、少女の左手がそっとそれを閉める。
二人分の乱れた呼吸だけがしばらく響いた。
深い森独特の、湿った空気の匂いで充ちていた。
男は時折苦しげに咳き込んだ。
少女はどうしていいか分からず、上下する男の肩を撫でている。
倉の中は外以上の暗闇で、何も見えなかった。
「撃たれたか」
生憎この暗さで動きは見えないが、少女はどうやら首を横に振ったようだった。
「それ……」
と、小さな声で呟く。
「ああ、血だな」
「『ち』……痛くないですか」
「痛み位なら知っているのか。上出来だ」
冗談めかして言ってみるものの、実際はもうあまり痛みは感じない。
そんなものは通り過ぎてしまった。
自分の肩を無意味にも必死にさすってくれている少女。
彼女の顔が見えないのは、多分暗闇のせいだけじゃない。
息だけが苦しい。
『おい!』
苔生した板戸の向こうから大きな声が聞こえてくる。
『そこの奴、出て来い!佳乃を返せ!』
そう怒鳴って扉を叩く。
男の肩を撫でていた少女の手がふと止まった。
「兄さま……」
どうやら扉の外で胴間声を張り上げているのは彼女の兄らしい。
「佳乃というのか」
「はい。あなたは遠山さんですよね」
「初めて会ったときに教えたんだったか」
『おい!佳乃を連れて出て来い!』
外からは幾らか集まった足音と、次々に弓を番える音が聞こえる。
肩に置かれた手を軽く払った。
「お前はここにいろ」
足首に力を入れるが、上手く立ち上がれずによろめく。
ようやく立ち上がって板戸の鍵を抜くと、板の間の細い隙間からほのかな月の光が差し込んだ。
振り返ると、少女がこちらを見上げているのがぼんやりと色にじみして見える。
彼女は今どんな表情をしているのだろう。
板戸をゆっくり押し開くと、低い音で軋んだ。





外の景色を見て驚いた。
敷きつめられた緑の草の上。
こちらに矢を構える2,30人の男達の間に
きらきらと光る粒が月の光を弾いてぼやけていたから。
「なるほど、真珠か…」
自嘲気味に笑うと、口の中に鉄の塩味が広がった。





再び閉じられた扉。空を切った手。
彼の服を掴もうとして、届かなかった指。
「遠山さん……」
ほのかに芽生えた憧れの気持ち。
どこに行ったのか分からないけれど、兄が来て、この倉を出たら、もう一度彼に逢いたい。

外ではしばらく鈍い音が続いている。







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